町の小さなカフェには、古い木製のスピーカーがあります。
埃をかぶったそれは、まるで骨董品のようです。
いつもは静かにジャズを流し、店の雰囲気を優しく包んでいました。
しかし、ある日を境に、スピーカーは特別な存在になったのです。
それは、激しい夕立の日でした。
雨粒が窓を叩きつける音が、店中に響き渡ります。
いつものジャズは、雨音にかき消されそうでした。
その時です。
スピーカーから、いつもと違うメロディが流れ始めました。
それは、かすかに耳に残る、古い童謡でした。
亡くなった母が、よく口ずさんでいた歌です。
僕は思わず、カップに伸ばした手を止め、スピーカーを見つめました。
雨が小降りになると、童謡は自然とジャズに戻りました。
まるで、幻でも見たかのようでした。
その日以来、雨が降るたびに、スピーカーは違う曲を奏でるようになりました。
霧雨の朝には、学生時代の甘酸っぱいポップス。
雷雨の夜には、父が歌っていた力強い演歌。
雨の強さ、降り方、そして僕のその日の気分に呼応するかのように、流れる曲は変わるのです。
常連客たちは、それを「雨音の選曲」と呼び、楽しみにするようになりました。
「今日はどんな曲が流れるんだろうね」と、誰もが目を輝かせます。
そして、ある嵐の夜。
店に客はおらず、僕は一人、スピーカーの前に座っていました。
窓の外は、激しい風と雨の音でごうごうと鳴っています。
スピーカーからは、優しい子守唄が流れ出しました。
それは、僕がずっと忘れていた、幼い頃に母が歌ってくれた歌でした。
僕は、ただ涙が溢れるのを止められませんでした。
スピーカーは、僕の記憶の奥底に眠る宝物を、雨の日にだけそっと開いてくれるのです。
嵐が過ぎ去り、雨が止むと、スピーカーはまたいつものジャズに戻りました。
しかし、僕の心には、温かい余韻が長く残っていました。